「闇」…五感研ぎ澄まされる世界

京都新聞連載コラム2007「身体を生きる-五環生活宣言」より

[1]2007_0606

「闇」…五感研ぎ澄まされる世界

写真:まっくらカフェ


子どもの頃から闇が好きで、押し入れやソファの下に隠れるのも好きだった。何かがいるような気がして、怖さ半分興味半分でドキドキした。24時間都市となり、まちから闇が消えつつある。同時に何かが消え去っていないだろうか。

昨今はスピリチュアルブームだという。ただ、もっと実際のまちや場所との接点があるべきではないか。前世や個人史だけを論じるのではなく、わたしたちの身体をアンテナとして例えると、場所の雰囲「気」との関係も考えることも大切ではないだろうか。風水も、黄色いモノが良いなどの単純なものではなくて、本来は自然の地形や水や気の流れを読み解くダイナミックな科学的体系であった。私たちは知識学習だけではなく、身体を使っても学習していたのだ。五感能力の退化とともに、そういった身体能力も衰退あるいは忘却してきているように思う。「知識でわかる」ばかりでなく、「身体でわかる」ことの再生も目指しても良いのではないか。

数年前、熊野古道において、『夜の五感ウォーク』を実験した。懐中電灯を消した直後は、真っ暗で何もできないが、徐々に身体のアンテナが立ち上がっていく感覚がわかる。視覚以外の五感を総動員しようとしている身体がそこにはある。皮膚から情報を必死に得ようとする身体のうめきがわかるのだ。しばらくすると、まっくら闇でもスタスタと歩ける自分に驚く。一歩間違えばすべり落ちるような崖の横でも、どんどんと歩くことができる。かすかな風や空気の層の違いを感じていたのかもしれない。

わざわざ山中に行かなくても、寺院にある胎内めぐり等でも同様の体験をすることもできる。善光寺にある「お戒壇巡り」は、本堂下の回廊を闇にして、本尊とつながっている錠前を探し歩くものであった。壁に手をふれながら、前後の身体を意識しながらまっくら闇を歩む。後ろのおじさんの手が私の手に何度となくふれてくるのが、とても気になったが、手探りで歩く闇は、身体の感覚刺激には良い。それこそ胎内なのか子宮なのか、落ち着く時空であった。

私が関わっているNPO法人五環生活(事務局・彦根市)では、まっくら闇でご飯を味わうことで、普段食べている食材の本当の味を感じてもらおうという『まっくらカフェ』を実施している。視覚だけではなく、嗅覚、味覚、触覚、聴覚といった五感すべてを動員して味わう体験である。有機と無農薬の「玄米」食べ比べや、市販の粒子状出汁ときちんと出汁をとった「お吸い物」の味比べなどを提供している。かなり怪しい雰囲気だが、「毎日何かをしながら、なんとなく食べているので、こんなに食事に集中したのは初めてでした」「視覚が五感の多くを占めていることをしみじみ感じました」「見えないって、不便ですが、その分他の感覚をフルに使ってみようとしてジタバタしていることがすごく楽しかったです」といった声を参加者からいただいている。

環境問題の原点には身体がある。「五環生活」とは、五感(身体)+環境+暮らしをコンセプトとして、五つのカン(簡・観・歓・感・環)を大切にしながら環境との関わりを考えていくプラットフォームを提供していこうという発想である。身体から環境を考えるためにも、「五感」というアンテナは常に磨いておきたい。あなたも闇に感じ入ってみませんか。


ryujirokondo's trajectory

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